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美は見捨てられた



美は見捨てられた

 

芸術は美を見捨ててしまいました。

 

古代の芸術は美のうちに存在し、美によって豊かなものとなりました。

 

一方、モダニズム芸術は、時として美の理念を、つまり自然の美そのものではなく美しい肉体に宿る美の理念を、そして美の追憶と参照を称揚してきたのです。

 

西洋美術においては、美しい肉体は究極のタブーとなってきています。イスラム教の敬虔な信徒やキリスト教の原理主義者、お堅い知識人や年老いたフェミニストたちが、心の底では肉体の美に渇望しているにもかかわらず、同じやり方で美を女性の肉体から切り離そうとしています。私はこのことに昔から気づいていました。

 

彼らが偶像とするイメージは、他の文化として見なされなければならないでしょう。つまり、信仰も神もない者の世界に属し、下品な者の世界のものであり、父権制社会の長の世界にふさわしいものとして。彼らは美しい肉体を歓迎しようとしません。黒いフェルトペンで塗りつぶしたり、法律を制定したり、またある者はそれを、

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安っぽい、俗悪な作品と見下します。

そしてアーティストは醜さの中に避難所を見いだしているのです。

 

美は、見捨てられることを喜んでいません。

美は見つめてもらいたい、吟味してもらいたい、そっと近寄ってもらいたい、人々に押し寄せて来てもらいたい、攻撃され暴行してもらいたい・・それが美というものでしょう。美とは鉄でできた鋭い矢先を引き寄せる磁石なんです。その矢は、放たれたか、引き寄せられたらかそんなことどちらでもいいのかもしれませんが、確実に宙を飛び、対象に突き刺さり、貫通しなければならないものなんです。やがてはそれ自身の熱烈な想いによって飲み込まれてしまうと決まっているんですがね。

 

私は毎日、美を迎えています。私が目を開ける、すると美はそこにあり、私を呼んでいるんです。

 

私のモデルたちは美をこわがったりしません。

彼女たちは私のバスルームでお互いの髪をとかし、オイルや化粧品やヘアカラー、それからローラーやドライヤーで手入れをします。リビングルームや『ガールズ・ルーム』にある大きな鏡の前あたりに腰をおろして、メイクだのファッションだのに話の花を咲かせて、お互いの服を交換して試着したりしています。

そして腹や尻、爪や乳首についてコメントするんです。「こんな色でいいの?」「わたしのお尻、これには大きすぎない?」「もう写真できた?見てもいい?」なんて私に尋ねます。 

 

モデルは自分のカラダについては疑問があるのですが、美を疑うことはないです。まるでイェマヤやオチュン(注1)といった神々を疑うことがないのと同じです。それが正解というものですね。それでいいんです。

 

スタジオや森のなかで、私は彼女たちから衣服を奪い、指示を出し、時には縛りあげたりして撮影します。私は写真家ではありません。というのも、私はいまだ公開されていない映画のスチール写真を撮っているんです。たとえば、私の物語のための数シーンとか。ある物語はすでに書かれていますが、ある物語はまだ形になっていません。また、私の好きな大衆映画作品から無知のためか自粛したためかあいにく抜け落ちたシーンを、撮ります。

 

写真作品を制作しているとはいえ、既存の芸術世界に入っているとは思いません。むしろ、インターネット空間に広まってきた新しいフォークアート(民衆芸術)であると思っています。それは私が儀式リアリズム(リチュアル・リアリズム)と命名したもので、主流派の芸術批評がまだ触れていない国際的な民衆芸術です。この表象のメディアとテクニックは、主にポーザープログラム(注2)と画像操作技術です。もっとも私が儀式リアリズムとするアーティストのなかには、まだペンや鉛筆を使った線描画を好んでいる人たちもいますが。執着と衝動性、そして迫真性に根ざしていることが儀式現実主義の基準です。リチュアル・リアリズム(儀式リアリズム)のアーティストたちのブレーキは壊れていまして、画像表現したいという衝動を飽くことなく現実化し、主としてエロティックなものですが、個人的な執着にのめり込んでいます。ネオアブストラクトのパターン画家とか数字を書きまくる者は含めたくないですね。彼らはきっと同様に衝動に突き動かされているのでしょうが、彼らが主題としているものは、取り付かれた心が、耐え難い美のインパクトと現実世界の恐怖から引き出すイメージに対して無頓着ですから。

 

フロイトが、すべての芸術は心的葛藤の現実を強迫的に再現したものである、と考えていたとはよく言われていることです。『フロイトにとって、芸術家の創作品とは、主として創造者が解決できない神経症的葛藤を表現したもので、概して性的な葛藤を表現したものである。また、芸術家は現実世界で実現できなかったものを自由奔放なファンタジーに編み上げてしまう性的欲求不満を持つ子供じみた神経症患者である』(シェルダン・リット(注3))。シュールリアリズムはフロイトに賛成するかもしれませんね。芸術に対するこのような見解は、概してお世辞が過ぎると私は思います。けれどリチュアル・リアリズム(儀式リアリズム)についていうならば、これは良い見解というべきでしょう。フロイトはインターネットがもたらした現代の表象を愛したことでしょうし、これは禁じられた性的幻想の現れである、と言って十分に満足したことでしょう。

芸術は、幽霊以上にリアルなものはないと知るべきなのでしょう。